読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サイバー遊民

日々遊んで暮らしたい。

末人が増えてきている

雑記

f:id:dai5m:20151113164946j:plain

 こんにちはDai5です。

「会社は辞めたい。働きたくない。楽しいことがしたい。でもどうしたらいいかわからない」


 先月、大学時代の友人たちと久しく飲み交わした折、友人の一人が広大無辺の無慈悲な社会に放り込まれて3年目の心境を吐露しました。

 

「ならば会社を興すべきだ」

「文筆で一発当てるべし」

「いやいや、ユーチューバー(笑)だろ」


 周囲の皆は口ぐちに案をだしますが、彼は誰ひとりとしてまともに相手はしません。

 

「起業なんて何を売ればいいか案なんてない。あったらやってる」

「エロゲライターならやりたいけど、修羅の道で有名だろ」

「ユーチューバー(笑)はインセンティブ落ちてるからもう食えないんだよ」


 数人から同時に出される案をネガティブなワードで即座に否定していきます。
 おそらく彼は同時に相談を持ちかけられて、ひとりひとりに解決案を出す「聖徳太子」の反対語に位置する人なのでしょう。

 

 僕は「ああ、またか」と思っていました。

 

 というのも社会に出てからというもの、「唾棄すべき現状を打破したいが、そのために何もやっていない。夢や目標がないという人たち」
 このような人を目にする機会に恵まれてしまっていたからです。
 増田なんかにもちらほらとこのような人が現れては争いの火種を落としていきます。
ただ与えられたコンテンツを消費するのみで、満足もしなければ、内にたまる鬱屈たる憤懣を抱え続けているのです。


恋愛面でも違いなく


「彼女はほしいが、出会いがない。クラブはこわいし、街コンのビッチにひっかかりたくはない。かといって合コンに誘ってくれるようなイケイケの友人はいない」


 このような人に結構出会います。
 彼らはどこで出会うでもなく、自然の摂理のままに男女は偶然出会いひかれ合い気がつきゃ結ばれるという恋愛自然主義を持っているので、じっとそのタイミングが来るのを猥褻な期待と共に寝て待ちます。
 僕は恋愛至上主義者ではないので、焦らずタイミングがくるまでマイペースに待つその様は、どこか風流でありそれもまた乙なものだと思いますが、「彼女ほしい」とか言ってる人に限って寝て待つ傾向があるので、それはおかしいなあと思っているのです

 

 彼らは「アサイン」だとか「マネタイズ」とかいうよくわからん言葉を軽々しく使う人間を「意識高い系」と言って揶揄します。そうして自分たちは「意識低い系」だと自嘲します。

 この意識低い系という人々、僕はニーチェの言う末人ではないかと思うことがあります。

 

 「末人」とはニーチェが予言した「神が死んだ後」に現れる人々で、何の目的もなくただ放浪し、生をむさぼる人間のことです。

 「超人」とはその逆であり、彼らはその能力には関係なく(低くても)権力や名誉、財産といった人間的な欲望を持ち、そのために周囲に支配されることをしません。ニーチェはこれらの欲望を健全で人間を高めてくれる力だと称賛して「力への意思」と呼びました。

 

 ここから少しニーチェのキリスト教批判の流れについて簡単に解説していきます。

 元々、自然世界には弱者と強者が存在しました。
 強者は強く生き残り、弱者は淘汰されてきました。
 それがキリスト教の拡大とキリスト教哲学の発展により、弱者が強者になり変ってしまったとニーチェは考えました。(キリスト教では貧しい人や醜悪な人ほど神に愛される必要があるという道徳観を持っています。)


 聖書的にはキリストがゴルゴダの丘で磔刑にされる際、ローマ人に対して「この子は自分が悪いとなにも分かっていないのだ。父よお許しください」などとあわれみをかけたことにより強者は弱者に精神的で上に立たれてしまったのだとニーチェは考えたのです。

 そうした弱者の為にこそあると謳うキリスト教の根底には「弱者が強者に対して持つ嫉妬・怨念の感情」いわゆるところのルサンチマンがあるのだとニーチェは指摘しました。
 「本来は淘汰され衰退して滅んでいくはずの彼らに憐れみや同情をかけることは、人間としての弱さであり、こういった感情は本来人間の持っている超人としての資質を押さえつけ強者と弱者を平均化してしまう」と批判したのでした。

 いわゆるところの、みんなが大好きな平等というやつですね。「出る杭は打たれる」とも言います。

 そんな平均化された弱者達がはびこる中で信仰が失われれば、ただそこに残るのは欲望や目的を失った「末人」のみです。

 「神の死んだ世界(信仰が失われた世界)」では末人がはびこります。

 そして、ニーチェによると最終的には「末人」と「超人」とが対立しせめぎ合うらしいのです。

 

 超簡略化したのでところどころニュアンスは違うかもしれませんが、大雑把にこんなのがニーチェの思想です。なので、この「意識低い系」こそ現代における「末人」ではないのかと僕は思ったのです。

 現に彼は信仰なんてありませんし。僕が出会ってきた目標のない人間にももちろん信仰はありませんでした。

 しかし、末人が悪いわけではありません。

 なぜなら、近代化をするために多くの国はキリスト教をベースに発展してきた哲学を受け入れて西欧化し、末人には生きやすく、超人には生きにくい社会になっているからです。

 そんな中で、「目的の為には、他人に左右されない自由な生き方」という脱社畜信仰の強いブログ界隈の人間は現代における超人なのかもしれませんね。