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サイバー遊民

日々遊んで暮らしたい。

僕から怒りが消えた日

Dai5です。

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 僕には怒りの感情がない。

 こう言うとまるで僕は生気のない、炭酸の抜けたサイダーみたいな人間のように思われるかもしれないが、僕はよく笑うし、たまに泣く。髪を短くして傷のある眉間を隠していないときは、むしろ怒っているように勘違いされる事もある。

 

 嫌だ、苦しいと思うこともあるし、少しイライラすることもある。

 しかし、臨界点を突破してなおわきあがるような怒りの爆発がおきるようなことは無い。

 

 よく電車などで態度の大きなお爺さんを見かける。僕の経験上、彼らは気に入らないことがあると、すぐに烈火のごとく燃え盛り、大きな声でまくしたてる人間である事が多い。

 まるで瞬間湯沸かし器である。

 IQによって言葉数は様々であり、バリエーションある罵声を浴びせるものもいるが、たいていこの類の人間は「うるせーバカ」「コノヤロー!テメエ、バカヤロー!」と世代からしても誰に影響を受けたか丸わかりの暴言を吐く人が多い。

 どうして、そこまで瞬間的にエネルギーを爆発させることができるんだろう。

 いや、不思議ではない。不思議なのは僕の方だ。どうして僕は怒りが爆発しなくなったのだろう。

 

 「ついカッとなってやった。殺す気はなかった」

というのは一年に何度かは聞く殺人の常套句であるが、かつての僕はこれくらいのエネルギーを持っていたように思える。そう、僕も瞬間湯沸かし器であった。

 

 いや、そもそもうちの家系が瞬間湯沸かし器の家系であり、母は見たこともないのでよくわからないが、祖母にはカッとなってミシンバサミで刺されたり、茶碗で頭を勝ち割られたものである。まあ、僕があまり落ち着きのある子ではなく、祖母の精神面に多大なる負荷をかけていたということもあったのだけれど。

 祖母は僕が流血をするといつも青ざめていた。

 

 父は温厚でのんべんだらりとした人間であったが、カッとなって爆発する場所がいくつかあった。とりわけ祖母は父のそういった油がなみなみと注がれてあふれ出している場所にねちっこく嫌らしい言い方で火をつけてまわる放火魔であった。父と祖母は親子であるが、度々ケンカをして、最後に父は祖母を殴って僕の三人しかいないこの小さな家族はバラバラに暮らすようになった。僕が小学校を卒業してまもなくのことである。

 

 僕は祖母と暮らす事を選択した。

 その頃の僕は、多感な時期ということもあり、瞬間的に爆発するエネルギーは物凄いものであった。カチンとくると、手を上げずにはいられなかったし、祖母と意見が食い違って、何度も良い合いをしては壁に穴をあけていた。

 中学~高校時代にかけて、この怒りをだいぶ制御できるようになったが、根本的な怒りの炎は僕の心の中で轟々と燃え盛っていた。僕は広くなった器でこの炎を制御しているだけであって、コックをひねって炎を大きくしてやれば、いつだって爆発できたのだ。

 

 祖母の痴呆の症状が悪化したのは僕が高校生3年生になってからのことだった。

 

 薄々ボケてきてはいるなあと感じていたのだけど、その兆候は少しずつ少しずつ悪化していたのだった。僕はそれを見てみぬフリをしていた。

 「いや、あのしっかり者の祖母がそんなことになるはずがない」

 そう思って現実を受け入れることができなかった。だって、母のいない僕にとって祖母は母同然であり、老後の楽な生活を諦めて僕を育ててくれた大切な人だったから。

 15歳とかそこいらの僕にはどうしても受け入れることができなかった。

 

 しかし、現実とは残酷なものである。

 気が付けば祖母は家事をできなくなり、夕食には弁当が並ぶ事が多くなった。料理をしないのだから、買い物に行く必要はないのだけれど、祖母は日課の買い物を楽しみとしており、辞めることができなかった。スーパーまで歩いていくことが、祖母の唯一の運動であり、「健康のためにも」といつも言っては、「食材は大丈夫だから」という僕を振り切って買い物に出かけた。

 祖母は日に1度スーパーで3千円ほどの買い物をしてくるが、それを忘れて日に2~3度買い物に行く事があった。何を買ったか、何が冷蔵庫にあまっているのかも覚えていないので、たいてい思いつきで買ってくるのだ。トマトとバナナとリンゴは必ず買ってきていた。

 僕は朝は食べずに、昼は学校の食堂で食べていた。夕食はコンビニの弁当を食べていたため、食材が消費されることは基本的に無い。冷蔵庫の中は常にいっぱいであり、その横には入りきらない食材が常に放置されていた。

 

 やがて家にはチューチューという声が聞こえるようになった。

 ねずみがわいたのである。

 当たり前だ。掃除はせず、家は食材で溢れていた。僕は料理ができなかったが、時々なんとか消費しようとしたり、だめな物は捨てようとした。祖母はそれをみて「もったいない」とひどく怒った。

 当然僕も怒った。祖母に痴呆の現実を突きつけ、日に何度も買い物に行っていることや、料理もしないのに買い物は必要ないと叫んだ。家にはネズミがわき、寝ているとたまに足の指をかじられて飛び起きる事、祖母の「風呂に入ると風邪を引く」という思い込みが激しくなり、1週間に一度しか風呂に入らず着替えもしないので、悪臭がひどいということ。僕は何度も叫んだ。

 叫ぶたび、祖母はひどくショックを受けた。

 しかし、数時間たつとすっかり忘れて「ちょっとスーパー言ってくるね」と買い物の準備をする祖母。また叫ぶ僕。しかし、すっかり忘れてしまう祖母。

 

 やがて僕は叫ばなくなった。

 僕の祖母へ向けられた怒りは、祖母にぶつかって何かが変わるわけではなかった。結局僕は虚空に向かって叫んでいるのだと気が付いたとき、僕の中の怒りの炎は何に対してもすっかり消えてしまった。

 同時に僕は耐え切れなくなって家を出た。近くにアパートを借りて、そこに住んだ。未成年であったが、親の同意書などを自分で作り上げて、初めての一人暮らしが始まった。僕は何もかもが嫌になり逃げたのだ。

 しかし、祖母が心配になり、2日に一回は様子を見に行った。今思えば、そもそも家を飛び出す事態が阿呆なことであったが、距離を置いた事で、生活の大変さや苦労なんかがちょっとだけ分かった。この頃から怒りに変わって僕の中で渦巻いていた絶望みたいな負の感情は少しずつ消えていった。

 祖母は僕が出て行ったことなんか忘れて、いつも「買い物行ってきます」という置き手紙をテーブルの上に残していた。僕は祖母に一人暮らしをしているということを頭に植えつけるため、一人暮らしの感想やアルバイト生活がきついという話を聞かせていた。

 

 そんな生活の中、僕はある日右腕をぽっきりと折った。

 手術の時、祖母は一晩かけて病院に泊まり込み、着替えなどを用意してくれていた。僕が目を覚ますと、祖母は優しくも少し疲れた顔で僕を見つめていた。その顔には覚えがある。幼少のころ、胸にひどい火傷を負って入院したときや、足を何針も縫うような怪我をしたり、車に跳ねられたときなど、何度も見た顔だった。

 その時僕は祖母は基本的にはこういう人間で、根本的なところは何もかわっていないのだなと嬉しくもなった。祖母はいつだって僕の母なのだ。

 

 僕は祖母の家に戻った。同時に現実を見て問題を放っておくのはやめなければならないと決意した。

 僕は自分ひとりの力ではどうしようもないこと、圧倒的な知識不足であること、現状に対処できないことを知り、親戚に助けを求めた。

 親戚は少し見ない間にすっかり変わった祖母をみて驚いたが、祖母を静かな施設に入れるという手配をしてくれた。祖母の家に戻った事により、アルバイト生活をやめ受験勉強に集中できるようになった僕は関東圏の大学に合格した。

 僕が関東に出るのと当時に祖母は施設に入った。

 

 僕はこのとき、独り立ちをしたのだと悟った。

 

 それは同時に母を、祖母を、あの穏やかな日々を失うことであった。友人がお盆や正月に帰省するという話を聞くと、僕は羨ましくってたまらなくなってしまう。彼等にはまだある、あの穏やかな日々の続きが。家に帰ると父や母がいて、兄弟がいて、自分の部屋があって、あの日と変わらない生活をすぐに取り戻せる。

 部屋でのんびりとゲームをして、テーブルについてくだらないテレビ番組に悪態をつき、ご近所さんの話をしたり、家族でデパートに行って買い物をするのだ。

 僕にはもうない。もう失くしてしまったんだ。

 僕は祖母と買い物に行った事、近くのデパートで食事をしたこと、遊園地に行った事を思い出す。

 そして、あの怪我をしたときに見せる優しい顔を思い出す。

 僕は、祖母と4~5単語の長く続かない話をすることはあっても、お出かけする事はもうない。

 だから、ただ思い出すだけ。

 本当は昔みたいにお出かけしたいし、もっといっぱい話がしたい。家族旅行で見知らぬ土地に一緒に行ってみたかった。

 でも、それが叶うことはもうない。

 だから、ただ思い出すだけ。思い出して、羨ましく思うだけ。

 父も僕が23の時に他界したので同じことが言える。父にも色々思うところがあるがまた今度、機会があれば綴ろうと思う。

 

 関東にきてからの生活は来年で7年目になる。

すっかり慣れきった生活や、こちらでの基盤も安定して、精神が不安定になる事は少なくなった。僕も少しずつ大人になってきているのだ。これも全て僕を育ててくれた祖母と父のおかげだろう。

 祖母の痴呆の悪化や、父の他界で一時期は炭酸の抜けたサイダーのように無気力で荒んだ生活になったけど、今では仕事にも趣味にも目標がある。

 よく笑うようになったし、たまに泣く。眉間の傷はなぜか深くなり、髪を短くして傷のある眉間を隠していないときは、むしろ怒っているように勘違いされる事もある。

 そして、毎日はところどころ輝いている。

 

 ただ、僕が祖母を一度捨てて逃げだしたあの日以来、僕の怒りが戻る事は無い。僕は怒らない。言って聞かない人間は放っておくし、対立する人間は冷たくあしらう。昔のように真直ぐに感情をぶつけるということができなくなってしまった。

 それは、あの時僕がいつまでも現実を受け入れられなくて、子供であろうとした罰なのかもしれない。